歴史 の記事

増山城と長沼城との関係
今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会...

増山城、伝承について
先日、増山城の最後の伝承者といわれる、Tさん宅へお邪魔させていただいた。なかなか日程が合わず、やっと、やっとの念願の訪問となりました!増山城の魅力を感じるには、曲輪を巡るだけでなく、外街道を、内街道を含め、自分だったらど...

家紋
日本の家紋は、縄文・弥生土器の文様にその原型を見ることができるようですが、正式には平安時代中期に貴族たちが牛車や装飾品に、目印用として自分のマークを入れたことが発祥とされています。後に武将たちが、戦場で敵味方を区別するた...

この時期だから「さらさら越え」
天正十二年(1584)十一月末、富山城主の佐々成政が家臣従者100人ばかりを引き連れ厳冬期の北アルプスを越えるという、前人未到の「さらさら越え」を決行したことにについて、日付や人数等については少しずつのずれがあるが、い...

「さらさら越え」についての一考
佐々成政が、厳冬期に立山連峰を越えて浜松に向かったと伝わる「さらさら(ザラ峠)越え」について異論を唱える人がいるという。 その人は大山歴史民俗研究会の久保尚文会長で、松本市に残る地元豪族の文書「榛葉文書」に、徳川家が、...

「能景塚」と「為景塚」に関する伝承
砺波市の住宅地図にも載っておりますが、頼成新の永田又郎宅地内に「能景塚」と、そこから150メートルほど離れた田んぼの中に「為景塚」と呼ばれる塚があり、この二つの塚は戦国時代のものと伝承されており、もとはそれぞれ「宇佐美塚...

為景塚と能景塚 その3
さて、いよいよ本題です。 長尾能景塚 (宇佐美塚) 能景塚は径10mほどの小さなマウンドをもった墳墓です。墳頂には五輪塔などの中世石造物の残骸が残されています。同じ頼成新のK宅には宇佐美塚から出土したという五輪塔が安置さ...

為景塚と能景塚 その2
(↑白江秋広1992「頼成新の塚への一考察」『土蔵』第4号) 上の図をご覧ください。 図中の「長尾塚」が現在の為景塚、「宇佐美塚」が能景塚のこと。明治6年の段階では、このように呼ばれていたことがわかります。 それでは、い...

為景塚と能景塚 その1
会員さんからお問い合わせがあったので、「長尾為景塚」と「長尾能景塚」のことについてご紹介したいと思います。 為景塚・能景塚について苦手意識をもっているアナタ!ぜひご一読のうえ、ガイド・スキルのアップにお役立てください! ...