増山城と長沼城との関係

今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会にありました。
詳しいことについては「増山城跡総合調査報告書」の筆者、高岡徹氏に砺波市教育委員会から繋いでいただきました。いただいたメールによって繋がったご縁です。

「史跡増山城跡保存管理計画」砺波市教育委員会によれば、
天正6年に謙信が急死すると、越中の国人衆が織田方に走る動きを見せた。天正9年に孤立した増山城の上杉勢は城に火を放って木舟城に移っている。しかし、木舟城は北陸に軍事展開する織田方の手に落ち、増山城も攻略された。織田方は増山城を拠点にして一揆方の拠点である瑞泉寺を攻めたとみられる。織田の武将佐々成政は天正11年頃に越中を平定し、増山城は富山城を本拠とした成政の有力支城となった。この頃、城を守っていたのは、成政の養子、佐々勝之や直属の馬廻衆であったという。とされている。
では、佐々源六勝之とはどんな人物なのだろか?
ちなみに佐々源六勝之=佐久間勝之は同一人物ですよ!氏族は佐久間→柴田→佐々→佐久間と変わっています。
永禄11年、織田氏の家臣・佐久間盛次の第四男として生まれる。はじめは叔父の柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り、婿養子となった。後に北条氏、豊臣家、蒲生氏郷、徳川家へと主君を変えている。佐久間姓に復したのは、秀吉に仕えてから。
佐久間兄弟は蒲生氏郷に付属し、奥州討伐で戦績をあげ、当時、蔵入地にしたばかりの北信濃(兄、安政に槙島(現在の長野市信州新町)、弟の勝之に長沼城を与えました。秀吉死後は徳川家に仕えました。関ヶ原、大阪夏の陣、冬の陣でも戦績をあげ、再び、北信濃の地を拝領することになりました。
繋がりの中で、新たに解ったこと!
佐久間勝之にとって増山城は人生で最初の守城だったこと。佐久間勝之という共通点で250年余りの年月を超えてご縁をいただきました。
今年度中に、長沼住民の皆様が増山城を訪れていただくことになるかもしれません。曲輪の会皆で温かいもてなしをしたいものです。

飯綱広報紙「いいづな通信」6月号から「マンガ戦国佐久間兄弟」の連載が始まりました。
月1回発行です。増山城は9月号に登場の予定だそうです。HPで発行されたら、皆さんにもお知らせしたいと思います。
  
             曲輪の会 柄崎 文枝