「さらさら越え」についての一考

 佐々成政が、厳冬期に立山連峰を越えて浜松に向かったと伝わる「さらさら(ザラ峠)越え」について異論を唱える人がいるという。
 その人は大山歴史民俗研究会の久保尚文会長で、松本市に残る地元豪族の文書「榛葉文書」に、徳川家が、佐々家による夏の行脚への便宜を図ったことに対する礼状を榛葉家に送ったとの記述があり、そのことを根拠としているようだ。
 長野県の近年の郷土史研究で、榛葉氏の主君・小笠原氏が、歴史上さらさら越えが決行されたとされる1584年の夏季にのみ、徳川家に仕えていたことが明らかになっており、同年冬には徳川家との主従関係がなく道中の便宜を計ることはありえないとしている。
 また専門家の中には、家康の側近松平家忠が天正12年12月の「家忠日記」に「越中之佐々蔵助浜松へこし候」と記していることから、冬に東海地方に来たことは事実とみるが、冬山の難所である立山・ザラ峠を経たという説には疑問を持つ人も多く、ルートに様々な説が出ているという。
 その事について久保氏も、冬の立山越えは不可能に近く、仮にザラ峠を通っていなければ、さらさら越えとは言えないのではないかとも主張しているようだ。曲輪の会 事務局