(↑白江秋広1992「頼成新の塚への一考察」『土蔵』第4号)
上の図をご覧ください。
図中の「長尾塚」が現在の為景塚、「宇佐美塚」が能景塚のこと。明治6年の段階では、このように呼ばれていたことがわかります。
それでは、いつから現在の呼称になったのでしょうか。
大正3年刊行の『栴檀野誌』によると、明治32年6月に米沢の上杉家から先祖の墓地調査のために、砺波市頼成新に使者が遣わされました。この時点以降、それぞれ為景塚・能景塚と呼ばれるようになったといわれます。
じつは、案外新しい呼び名なんですね。
曲輪の会事務局