「能景塚」と「為景塚」に関する伝承

砺波市の住宅地図にも載っておりますが、頼成新の永田又郎宅地内に「能景塚」と、そこから150メートルほど離れた田んぼの中に「為景塚」と呼ばれる塚があり、この二つの塚は戦国時代のものと伝承されており、もとはそれぞれ「宇佐美塚」「長尾塚」と呼ばれていたようです。

『栴檀野誌』に、出羽国の旧米沢城主上杉氏が、頼成新にあるという祖先の墓を調査するために伊佐早謙(上杉氏の家宰)を派遣し、その際、伊佐早謙から当時の永田家の当主又平に送られたという書状が載っています。

伊佐早謙永田又平ニ贈リシ書状
両古塚之儀ニ付篤ト相調候ニ、貴邸内ノ塚ハ宇佐美定行ト申伝候ハ誤謬ト在候、其所以左ニ
一、永正三年九月十九日、長尾信濃守能景、椎名慶親ト芹谷ニ於テ戦ヒ討死、法名高岳正統、此後ニ宇佐美某・水原某等諸将モ戦死セシコト、古文書ニ徴シテ明白ナリ
一、天文十四年、長尾信濃守為景、亦同所ニ於テ戦死ス、法名譲怒道七、但シ、宇佐美定行ハ戦死セズ、定行ハ永禄七年七月五日死去、其墓ハ越後魚沼郡上田庄雲洞村雲洞庵ニアリ、以テ貴邸内ノ塚ハ能景塚ナラン 下略
   明治三十二年六月廿五日      伊佐早謙
      永田又平殿

これにより、永田邸内の塚は「宇佐美塚」ではなく「能景塚」と呼ばれるようになったと思われます。
また「為景塚」においても『栴檀野誌』には長尾為景戦死のところで

為景越後ヲ略シテ主トナリ進ンテ越中ヲ併合セントスルノ意切ナリ天文十四年… 略 …為景謀計ヲ知ラズ兵ヲ馳セテ追撃シ自ラヲ陥穿ニ墜ツ江崎但馬鎗ヲ以テ之ヲ殺ス茲ニ於テ増山軍ノ士気大ニ振ヒ勇戦激闘ニ敵ヲ敗ル越後ノ兵先ヲ爭フテ本國ニ走レリ此際増山ノ三十六ヶ寺院戦勝ヲ祝シテ同時ニ梵鐘ヲ鳴ラシ天地ヲ震動セシメタリトイフ後為景ノ霊魂ヲ慰メ復千光寺僧正ヲシテ懇ニ葬ラシメ法名眞光院高岳正等大居士ト謚シ(千光寺過去帳)其ノ墳墓ヲ長尾塚ト稱ス今頼成新ニ在リ古来相侵ス者ナシ

とあります。
最も古いもので、宝永元年(1704)には頼成新村内の塚が「為景塚」と藩へ報告されていたようですが、明治初年の地図には「長尾塚」となり、またいつの頃からか「為景塚」にもどったようです。
      『栴檀野誌』抜粋『増山城跡総合調査報告書』参考
曲輪の会 事務局