古絵図から見た増山城 その3

③城内の郭群
 山上に設けられた郭としては、「一之丸」「二之丸」「三之丸」「無常」「安室屋敷」の地名が絵図中に見られる。これらの郭は江戸時代以降、一貫して場内の主要な郭とみなされ、それらの地名が付され、継承されてきたのだろう。ただし、「一之丸」「二之丸」「三之丸」の地名は、当初西方から順番に数える形で便宜上付けられた可能性が強く、本来の呼称とは考えられない。
 ところで、一つ気になる地名がある。それは、「一之丸」の西側に記されている「舛形」である。「舛(升・桝)形」とは、一般に城の出入り口に設けられた矩形または方形の区画を指す。ここでは、防御上の配慮から、城内への侵入路が屈折して設けられ、外部から直進して入れないようになっている。城門が二重に設けられているのも、大きな特徴である。また、城内からの出撃に際し、一時的に城兵を集結させる為のスペースとしても使われるという。
 「舛形」の地名は、あるいは一の丸の西側にそうした施設が存在したことを物語るのであろうか。今のところ、そのことを示す明確な遺構は残されておらず、存在自体も含め詳細は一切不明である。ただ、この一の丸西下は西から七曲がりをたどって登った道と、北からF郭を通って登った道がそれぞれ山上部に達して合流する所である。つまり、一の丸の西下は二本の登り道が集中する場所であり、ある意味では、城内と外部を結ぶ上で重要な所と言える。ここに土塁などを築き、城門を設けることによって出入口を固める施設を置いたとしても不思議ではない。参考までに、江戸後期の『越の下草』には、本丸の「南方に升形と唱る処ありて、二の丸なりといふ」と述べ、「二の丸」の別称を「升形」と記している。このことは、「升形」の呼称が江戸時代の早い時期に遡ることを示している。なお、城跡のある山が「升形山」と呼ばれている場合もある。たとえば、魚津市の升形山城、上市町の郷田砦、氷見市の荒山砦などである。この内、荒山砦については、山の形が四角で升を伏せたように見えるからだと伝えられている。おそらく、城が築かれた際、上部が削平された山容に由来するのだろう。とすれば、「増山」の地名も同様の理由から、「升山」が転じた可能性もある。 (増山城跡総合調査報告書より)
                     曲輪の会事務局