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西住塚
公開日時:2011年05月19日 08時53分 このページを印刷する
西住塚(さいじゅうづか)昭和62年3月30日・市指定砺波市庄川町三谷 この塚を土地の人々は西行塚と呼んでいます。昭和の中頃までは、現在より広く小高い円墳の形をとどめ、また二抱えもある老桜がありました。 『越中志徴』や『越之下草』『西住噴記』(1775年刊)には、西行・西住の二人が北国への旅の折、西住の故郷三谷村まで来た時、西住が病を得て死に、西行は塚を築き骨を埋め、その上に石碑を建て桜を植えて菩提を弔いました。これが西住噴だと述べています。 当時の石碑は慶長16年(1611)に前田利長が大清水(現高岡市)に御亭を造った際、誤って持っていかれたまま返されず、現在は永願寺の境内にそれが建っています。 三谷ではその後、代石として、現在の碑(いしぶみ)を建て、碑面には次の文字が刻まれています。《歌碑の銘文》 十方三世佛 もろともにながめながめて 夜の月 一切諸菩薩 ひとりにならん事ぞかなしき 西行 八万諸聖教 道柴の露の古へかへりきて 阿弥陀佛 馴れし三谷の里ぞ悲しき 西住 嘉応二年 亡靈菩提 俗名 佐藤義清・源季政の二人は、共に鳥羽院に仕える北面の武士でしたが、若くして出家し西行・西住と称し、その後も生涯の心合う友として過ごしました。『山家集』によると、碑の西行の歌は、死の病にある西住を看病していた時に詠んだとあります。 西住は『千載集』に四首入集する勅撰歌人ですが、彼の死は嘉応二年(1170)頃かと推定されているだけで、いつ、どこで没したか不明です。 西住墳の所在は全国的にめずらしいものです。
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