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慶長二年里山村等検地打渡状
公開日時:2019年04月15日 15時19分 このページを印刷する
慶長二年里山村等検地打渡状(けいちょうにねんさとやまむらとうけんちうちわたしじょう)昭和62年3月30日・市指定砺波市庄川町金屋 隠尾の南部家所蔵、慶長2年(1597)9月朔日(ついたち)付け文書「当村検地物成(ものなり)(江戸時代の年貢)之事」で、庄川町最古の文書です。 「村御印(むらごいん)」という年貢割付け状に、村別収穫高や税率を記載し、領内全村に下付したのが年貢取立ての基準となっていました。 書面の「里山村」は、隠尾など山間部の東部地区を指し、「栃上村」は砺波市栴檀山の村、「藤橋村」は旧井波町字藤橋を指すと考えられますが、「新村」がどの村なのか明らかではなく、里山村の村高は169俵2斗9合、物成は100俵につき60俵、新村の村高は120俵、物成は35俵、栃上村の村高は42俵8升4合、物成33俵2斗8升、藤橋村の村高は68俵2斗7合、物成は60俵と定められています。 慶長2年、前田利家の長男利長が越中統括のため、富山城に移ると、家臣で本文書花押(かおう)の主、前田長種が守山城に残り、砺波・射水の民生をみることとなりました。 なお、本文書の史的評価については、前田利家、利長が越中統治にあたって、領内各村に実施する総検地に先がけて試行的に行った村御印か、あるいは藩主の直接知行地として検地した折のものであるかは推測の域を出ません。注)『改作枢要記録』に、慶安元年(1648)領国惣検が命じられ、1650年、村御印が諸郡へ渡されたと記されています。