増山城最後の城主・中川光重と関ヶ原

映画『関ヶ原』を見た。映画には出てこないが、関ヶ原の合戦において、前田利長は徳川秀忠と同様、関ヶ原に遅れた武将だった。これには一説には増山城最後の城主・中川光重(この時期豊臣秀頼の近習として大阪にあった)のにせ手紙が
かかわっているといわれている。(諸説あり)。
当時の状況
前田利長は 母・まつ を徳川の人質として差し出していたので東軍に味方するしかなかった。
1600年
7月25日 家康は会津へ向け進軍中,石田三成の挙兵を知り反転し上方へ向かった。
7月26日 加賀・前田利長は2万5千の兵を率いて南加賀へ向かう。(この時期、北陸は大谷吉継の策により利長以外は西軍)
8月3日 利長、小松を攻め落とす。さらに金津まで進む。
8月4日 金津で8月3日付の中川光重の手紙に驚き急ぎ金沢へ引き上げる。
8月8日 利長、金沢へ引き上げの途中、丹羽軍の襲撃を受ける。(浅井畷(なわて)の戦い)。
8月10日 利長金沢へ帰還。高山右近に命じて惣堀構を作らせ大谷吉継の軍に対する防御態勢を固める。
8月13日 家康から 東軍に早く合流せよとの手紙が来るが、利長は内部体制の確立と、弟・利政の出兵拒否のため足踏み。
9月8日 再度家康から出陣要請の手紙。
9月11日 弟・利政を能登に残し、関ヶ原へ向け進軍。
9月14日 進軍中に東軍の勝利を聞く。利長は関ヶ原に遅れた武将となった。
10月17日 家康による論功行賞。加賀は80万石から120万石に加増となった。
1601年9月 徳川秀忠の娘 珠姫。前田家に輿入れ。 利常9歳  珠姫3歳。

中川光重の手紙
「大谷吉継が北陸の総大将として利長を攻略するため越前から4万の大軍を率いて出陣、水陸から留守の金沢城を攻め取る」というもの。

大谷吉継 (西軍・石田三成の盟友)の計略にかかり、光重が金沢へ帰る途中大谷吉継に抑留、脅迫されやむなく書かさせられた手紙であったといわれている。
結果的には利長の南進を1ヵ月以上も遅らせた。

本保澄雄

参考図書  池田公一 『名君 前田利家』新人物往来社
         山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房
         見瀬和雄 『利家・利長・利常』 北国新聞社