諏訪原城・すわはらじょう(研修報告1-2)

 茶畑が広がる牧ノ原の大地に城跡があります。実際に発掘調査に関わられた島田市教育委員会学芸員の方に案内をお願いしました。たいへん詳しく丁寧に説明していただいた上に、我々の質問にも気軽に答えてくださいました。

 この城跡のある場所は、過去には開発のため壊されそうになったこともあったそうですが、地元の反対によって阻止されたことを聞き、歴史を大切にされて郷土愛を育まれているところといった印象を持ちました。実際に現地を訪れることで、環境などの見えなかったものが見え、現地の人や研究者の言葉を直に聞くことで学び得るものが大きいと思いました。

 諏訪原城跡は、城内に入ると巨大な堀に囲まれ、完璧な防御態勢がとられていました。また、防御するだけではなく攻撃のために備えられた「丸(まる)馬出(うまだし)」には、武田氏の築城技術に徳川氏が手を加えた築城技術を見ることができたのは大きな喜びでした。
 
 今回、研修の中で、自身の郷土史を勉強してきたことが、この地域の歴史をとながったことに喜びを感じました。それは、この城の番人としての松平(まつだいら)家(いえ)忠(ただ)が記した『家(いえ)忠(ただ)日記(にっき)』の中で天正12(1584)年12月、佐々(さっさ)成政(なりまさ)の遠江(とおとうみ)国浜松行きが記されているからです。

 さらに、いただいた資料『国指定史跡 諏訪原城整備基本計画』には、武田信玄の死をいち早くつかんだのは飛騨の江馬(えま)輝(てる)盛(もり)であって、輝盛の家臣、河上(かわかみ)富信(とみのぶ)が上杉謙信の家臣に報じているとの記述がありました。江馬氏や河上氏は新川郡と関わりがあることから、たいへん参考になるものと思うとともに、学芸員の方のご配慮に感謝します。

 視察研修はたいへん充実した3日間となりました。野原さんには、長距離の運転に加えて各先々での案内の依頼や食事に宿泊など全てを担っていただきました。
 中島さんには、研修のための準備や手配をしていただいたお陰で、楽しく有意義な研修となりました。お二人には深く感謝いたし、心より御礼申し上げます。

寺崎

馬出しと二ノ丸間の空堀