増山城戦国祭り 城攻めウオーククイズラリー(7)

神水鉢④

用途 前回は老松邦雄さんの旗台(旗竿)石 説について書いたが、今回は佐伯哲也さんの塔心礎説について書く。

佐伯哲也さん 塔心礎説

佐賀県立博物館の所蔵する肥前名護屋城屏風には各陣屋の風景を描いているが、同図には各陣屋の門前には1本の旗もたっていなければ旗を立てる石も描いてない。
 大坂市立博物館の所蔵する関ヶ原合戦屏風図は、合戦に近い時期に描かれたと推定されるが、小西・島津・石田の各陣屋が描かれているが旗竿は周囲に設けられた逆茂木に括り付けられている。
神水鉢が旗竿石の可能性は少ない。
 守護・守護代が数百年使用した拠点クラスの城郭には、宗教空間をにおわせる地名が多く残っている。守護・守護代の拠点城郭にはごく一般的に宗教建造物が建っていたことは不思議ではない。
越前一乗谷の朝倉氏の城には宗教施設が建っていた。能登畠山氏の城にも安寧寺屋敷という寺屋敷があった。魚津松倉城にはシュゴジンドウ(?)というところも残っている。
 増山城主郭にも宗教建造物が建っていても何ら不思議ではない。実際の大きさのものではなく小さなもの。ここは宗教空間ですということをわからせるためだけのようなものが建っていたと考えるのが一番素直な考え。

 石の穴に手を入れると深さ24センチ、ちょっとくぼんだ所に5センチの深がある。そこは舎利孔(しゃりこう)と言っておしゃかさんの骨を入れるところである。こういうものを持っているのは古代の塔の礎石である。ここに三重塔、五重塔がたっていた。この石の下に重量物を乗せても沈まないように敷石が見つかっている。
このように見ていくと月時計でも旗台石でもない。ここは宗教的な建物が建っていたと考えるのが自然である。 ということで塔心礎説。

但し佐伯哲也さんは
 観光客には、月時計、旗台石、塔心礎の3つの説を説明し「さてどれでしょう」と言って考えてもらう方が逆襲も受けないし、ロマンがあって面白いのではないか。ともお話されていました。

参考資料 佐伯哲也さん
 『越中中世城郭図面集Ⅲ』
 講座「増山城の縄張りを読み解く」2013.4.13

 心礎 とは
  ・塔の心柱の礎石。中心に柱を受ける座や孔があるものが多く、奈良時代以前の物では舎利(しゃり)を納めるものもある。デジタル大辞泉
 
・礎石の下にはこぶし大の栗石が詰められる場合が多い ブリタニカ国際大辞典 

本保澄雄