七尾城の攻防戦
9/10(土)の七尾城攻めにあたり、七尾城の歴史が分かる資料がありましたので紹介します。
天正4年(1576)5月、将軍足利義昭の仲介で上杉謙信は、織田信長と戦っていた石山本願寺と和睦した。謙信は、武田信玄が健在のうちは、信玄の策におどる一向宗徒を討つため、信長と気脈を通じていたが、天正元年の信玄の死後は、その必要がなくなり、天下をめざすために信長に敵対する一向宗徒と手を握った方が有利と考えた。謙信は信長との決戦に備え、まず背後の安全を期して、越中にひき続き能登の支配に着手した。
天正4年9月、越中から加賀に兵を進めた謙信は、能登七尾城攻撃に先立ち、七尾城に同盟して織田軍に当たろうと申し入れた。しかし、七尾城では織田と親密な長綱連(チョウツナツラ)ら謙信と結ぶことを心よしとしない者が大勢を占め、この和親を断った。 その結果、謙信は 11月に津幡を発し、七尾城攻略に向かった。攻囲する謙信勢に対して、天険の要害にこもる七尾の名門・畠山勢は必死に防戦した。謙信は穴水城、正院城、熊木城、富木城などを陥落させ、この要所に部将を配し、七尾城を孤立状態にして翌5年3月、ひとまず春日山城へ凱旋した。
謙信の留守中、熊木城、富木城の二城を奪還したのも束の間、長沢筑前の穴水城を攻めあぐんでいる間に、閏7月、再び謙信は能登に侵攻、七尾城を攻囲した。ちょうどそのころ七尾城内には伝染病が蔓延。幼主畠山義春が病死し、さらに後見の叔父二本松義有も死んだ。兵士らも多く死に、士気も漸く落ち始めた。長綱連は城代となり、ひそかに弟の孝恩寺を脱出させ、信長のもとへ送って援軍をこわせた。
謙信も堅城七尾城を落す困難さから、遊佐続光、温井景隆、三宅長盛の内応(裏切り)を誘い、この工作に成功した。そして内応派により、長続連・綱連父子をはじめ長一族をことごとく謀殺、七尾城は遂に謙信に開城された。時に、天正5年(1577)9月15日であった。
一方、孝恩寺を先導にした信長の援軍は、9月15日七尾城が陥落したことも知らず、手取川を渡って石川郡の水島・倉部浜の線にまで進出してきた。そして倉部浜にさらされた長一族の首を見て、兵を引き返した。この時、謙信は加賀に出陣、引き返す織田軍を追って、増水中の手取川で千人余りを討ち取った。これが信長と謙信の最初で最後の合戦であったという。 【「戦国のロマン」塩 照夫著より】
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