飛騨の武将と塩の道
先日、北陸城郭研究会の堀 宗夫さんから自筆の「塩屋・江馬と飛越の物流」(「北陸の中世城郭」第六号 抜刷)を送っていただいた。
飛騨口の城、栂尾城、猿倉城、岩木城、中地山城といった城は越中国でありながら飛騨の武将、塩屋・江馬氏が築城あるいは在城したと言われる城である。
以前から何故と興味を持っていたが、堀 宗夫さんのこの自著を読んでいると、なるほどと思った。
通説では上杉謙信からの要請により越中へ進出したとの事だが、堀氏は飛越の物流ルートの掌握、経済システムが根本的な理由ではないかと仮説しておられる。
飛騨は山間地で耕作地が少なく江戸初期の石高は新開田2万石を含めても6万石程度。不足分を補うために戦国の時代も越中や能登の特産である塩や米、豊富な海の幸は飛騨に運ばれていた。
塩は人々の生活には不可欠なもの。食糧の保存、味噌や醤油にも使われる。
中世の塩の流通は塩座が独占的に行い、戦国大名は塩の保護統制を行い塩の確保、塩商人への課税を行っていた。
塩屋秋貞は三木氏の有力武将でありながら、元々は塩商人であったとも言われている。
飛騨では戦国時代より和佐保銀山、茂住銀山を代表とし多数の鉱山が開発されている。
この両銀山でも三万石に相当し、この莫大な収入が江馬氏、三木氏の財政を支えていた。
江馬氏の居館は庭園、会所といった将軍邸プランの館であり、北陸近隣では一乗谷、七尾の畠山氏にしか見られない。この豪奢な館を築けたのもこの銀山収入に裏打ちされている。
江馬氏が抱えたいた家臣とその家族は5千人、鉱山の人夫なども5千人、合わせて1万人を超えていた。
これらの人々が消費する食糧、その他物資の確保は飛騨の武将達の必然の生命線であった。
その飛越の物流ルートは飛騨街道、その他脇街道があった。主要道である飛騨街道は塩屋氏が掌握し、蟹寺城、栂尾城、猿倉城などを配下とした。
一方、対立する江馬氏は飛騨街道の封鎖もあり、「ウレ往来」と呼ばれる有峰ルートの脇街道も使用していた。
中地山城はその「ウレ往来」の越中側に在る。山間地の生産性の低い地にこの規模の山城があるのは不自然であり、江馬氏の物流拠点(物資の集積場である問屋として商人達が城内に蔵を持ち、牛馬を受け入れる目的で造営)ではなかろうかと推察されている。
曲輪の会 長江