【予習】 松倉城跡 まつくらじょうあと

5月29日に城攻めを行なう松倉城の情報です。

「城攻め」とは、曲輪の会の仲間で県内外のお城を探訪することをいいます。ただの「探訪」ではつまらないと思い、山城を踏査するときの心構え「登るときは攻め手の気持ちで」にならい、「城攻め」と呼ぶことにしました。

角川東岸の字城山(しろやま)(標高430メートル、比高360メートル)に築かれた山城。県指定史跡で、鹿熊(かくま)城・金山(かなやま)城ともいう。

守山(もりやま)城(現高岡市)・増山(ますやま)城(現砺波市)と並び、越中三大山城の一つとされる。

魚津城とともに室町―戦国期の新川(にいかわ)郡守護代椎名氏の居城として知られるが、椎名氏は鎌倉前期の承久の乱後に新補地頭として当地に入部したとみられる。松倉城が史料上に現れるのが南北朝期であることから、遅くとも鎌倉末期には築造されたものであろう。「太平記」巻二〇によると、建武5年(1338)7月3日に越後国府を発した南朝方の越後勢を防ぐため、越中守護普門(井上)俊清が国境に布陣したが、大半が討たれて「松倉城」へ引籠っている。このことから、松倉城がすでに南北朝初期より守護の拠る城郭として使われており、当地の椎名氏はこれより普門(井上)氏や桃井氏に属し、その軍事行動に協力したとみられる。

康永3年(1344)井上俊清が守護を罷免され幕府に敵対すると、能登吉見勢や桃井勢が討伐に差向けられ、貞和2年(1346)7月には井上方の「松倉与水尾南山要害」などで戦いが行われた(同年閏9月日「得田素章代章名軍忠状」遺編類纂所収得田文書)。この結果、俊清は降伏、松倉城も陥落したとみられる。しかし俊清は翌三年再び幕府に敵対したため、桃井直常や能登の吉見氏頼の軍勢が討伐に差向けられた。

同4年10月日の得田素章軍忠状(同文書)によると、松倉城に拠る井上方は同月一二日夜に城を落延び、内山(うちやま)城(現黒部市か)へと逃れている。その後、応安2年(1369)には元越中守護桃井直常が幕府に敵対し、10月22日吉見勢が桃井方の松倉城を攻めている(同年12月日「得田章房軍忠状」尊経閣文庫蔵得田文書)。翌3年3月16日、長沢(ながさわ)(現婦中町)において守護斯波義将の軍勢は桃井方と戦って桃井直和らを討取り、18日には松倉城に籠る桃井残党が降参・没落している(花営三代記)。

【引用元】 『日本歴史地名大系』(平凡社)