【予習】 松倉城跡 まつくらじょうあと (その2)

つづき。
ちょっと長いけど、頑張って読みましょう!

室町期に入ると、新川郡守護代となった椎名氏は北陸街道沿いの魚津城と松倉城を拠点とし、越中東部に勢力を扶植した。椎名氏は初め越後上杉氏に属していたが、永禄11年(1568)春、椎名康胤は武田信玄と結んで上杉氏に敵対したため、翌年8月上杉輝虎(謙信)は軍勢を率いて松倉城を攻め、城主康胤は城を追われた(8月23日「上杉輝虎書状」大河原辰次郎所蔵文書)。こののち松倉城は魚津城と並んで上杉氏の有力支城となり、河田長親らの部将が在番して城を守った。天正5年(1577)上杉謙信が織田信長と戦った際に作成された上杉家中役方大概(安田和泉所蔵文書)に「越中松倉初ハ金山河田豊前守」とある。同六年に謙信が急死すると、織田方が越中へ進出。上杉方をしだいに越中東部へ圧迫し、松倉城も上杉方と織田方の攻防の場となっている。同8年8月22日には織田方の神保長住が「金山城下」へ攻め込み、付近に放火する動きをみせているが(9月22日「神保長住書状」遺編類纂北国鎮定書札類)、この場合の金山城下は松倉城下をさすと考えられる。

翌9年3月長年にわたって松倉城主を勤めた河田長親が病死したため、上杉景勝は4月8日に松倉城警備の強化を命じ(「上杉景勝書状」歴代古案)、5月28日には警備の掟を定めている(上杉年譜)。
天正10年松倉城は魚津城とともに織田方の本格的な攻撃を受けた。とくに魚津城には柴田勝家・前田利家・佐々成政らが猛攻を加え、上杉景勝も出馬して天神山(てんじんやま)城に着陣、魚津城の救援を試みたが果せず(「上杉年譜」など)、同年5月26日夜に同城からの撤兵を行い、同日松倉城からも城兵が引揚げている(同月27日「前田利家書状」尊経閣文庫)。

こうして6月3日に魚津城は落城したが、この直後に本能寺の変の知らせが届き、織田勢の撤退とともに上杉方が再び魚津城や小出(こいで)城(現富山市)などを奪回した。しかし、翌年態勢を立直した佐々成政に攻められ、城将らは越後へ退去した。この間、松倉城が上杉方の手にあったか否かは不明だが、おそらく魚津・小出両城の維持が精いっぱいであったと考えられる。なお「三州志」によれば、前田利家は慶長(1596―1615)の初め松倉城を廃して升形山(ますがたやま)城を使ったと伝えており、もはや高所の山城を使う時代は終わったのであろう。

文政元年(1818)の城跡館跡由来書上帳(加越能文庫)によると、本丸の規模は東西二五間ほど、南北六〇間ほど、二の丸は四〇間四方ほど、大手先の三の丸は東西一〇間ほど、南北三〇間ほどで、北方は山続き、東・西・南の三方は深い谷と記される。越中三大山城の名のとおり、山頂部の主郭を中心に北東方向の尾根続きに郭群が連なり、各郭の間は堀切によって断たれている。また、麓の鹿熊集落に続く北西方向の尾根筋にも多数の郭群が配されている。

松倉城の最大の特徴は、升形山城・水尾山(みずおやま)城など周囲に多数の支城を設けていることで、それらが一体となって当地域全体を守っている。山上からはそれらの支城網をはじめ、早月(はやつき)川以西の平野部や魚津、さらには日本海も見渡せる。麓の鹿熊などには城下集落が存在していたとみられ、侍屋敷や寺院などにちなむ地名も多く分布する。椎名氏時代から上杉氏時代にかけて城郭群が築かれ、城下集落が繁栄した背景は、松倉金山をはじめとする山中に存在した多数の金山によるところが大きいとみられ、別名金山城とよばれるのもこのためであろう。

【引用元】 『日本歴史地名大系』(平凡社)