”古絵図からみた増山城” その4

④鐘撞堂
  鐘撞堂にあたるのは、無常(H郭)のある尾根の南端部に残る櫓台状の遺構であり、前回の踏査までは、ほとんど注目されることがなかった。上部は7×6mの広さで、周囲は切り立てられ、東側に設けられた登り道によって、登り降りできる。『越の下草』には、「七間四方程の跡」とあるが、現況はさほど広いものではない。おそらく、基部の大きさを記したものであろう。
 この遺構が『越の下草』に記すように、時刻を報せる時鐘台であったかどうかは、今後もなお検討を要するが、本県の場合、婦中町安田城跡にも「カネツキドウ」の呼称が残っている。城跡に残る「カネツキドウ」の呼称から、当時、鐘を合図や情報伝達に用いていたとする考え方もあるが、実態はまだ不明であり、安易に判断することは避けたい。だだ、この無常南端の鐘撞堂の上からは城下町跡が見下せ、城下町に向けて何らかの合図を行うことはできたであろう。しかし、それ以上に注目すべき点は、この遺構が増山城南方の外側防御線とも言うべき空堀の西端に臨んでいることである。位置から見て、この遺構は南方の尾根伝いに無常のH郭へ侵入しようとする敵を阻止するために設けられた櫓台と考えるべきであろう。今、南方からこの無常の先端部にたどり着くためには、いったん空堀を超えねばならないが、遺構の直下、すなわち空堀の西端部は土橋状に掘り残され、南方との通路の役目を果たしている。この櫓台は、まさにその土橋を見下す位置にあり、侵入する敵に対しては、強力な防御拠点になったとみられる。(増山城跡総合調査報告書より)
曲輪の会 事務局