増山城内の伝承地

「神保夫人入水井戸」
 二ノ丸、三ノ丸を経て、亀山城へ向かう途中の池の平にある井戸。謙信によって増山城が落城した折、神保夫人政子が神保家伝来の宝剣を抱いて入水したと『栴檀野誌』にある。他の江戸時代の地誌類には見当たらない。
 「天保11年杉野家絵図」には「池ノ平山」に「池」とある。この図には、「池」はこの一点だけが記してある。

「鐘撞堂」
 二ノ丸の北東隅に一段と高くなった櫓台がある。現地の案内看板には「鐘楼堂」とある。江戸時代の地誌類の中では「鐘」について記しているのは『越の下草』とそれを引用していると思われる『越登賀三州志』の「一書」だけである。

  三ノ丸と見ゆる処は、猶南方にて、時鐘台の跡とて、
 七間四方程の跡あり

 どの郭を三ノ丸としているのかわからないが、『越の下草』では「簱台に用へし石」のある所を「本丸」としているので、通称「二ノ丸」にある「鐘楼堂」をさしていないことは確かである。
 現在の郭の配置を見ると、最も南へ伸びるのは「無常」である。『越の下草』のいう南方の「三ノ丸」をこの「無常」とすると、その先に「鐘撞堂」なるものが存在したらしい。「天保11年杉野家絵図」には「無常」の先に「鐘搗堂」と書かれ、今日呼んでいる「二ノ丸」の「鐘楼堂」は「角櫓(すみやぐら)」と記している。 
         「増山城跡総合調査報告書」p.322より曲輪の会 事務局